郷土企画展 徳富蘆花と梅一輪−お馨さんの青春と思い出−


会期
平成15年2月1日(土曜日)〜3月9日(日曜日)
過去の展覧会ご案内です。すべて終了しています。

内容
徳冨蘆花(とくとみ ろか)、本名健次郎は、明治元年(1868)10月25日、徳冨一敬と久子の三男として、熊本県葦北郡水俣に生まれました。明治33年(1900)に刊行された「不如帰」で未曾有の大ヒットを飛ばし、一躍蘆花の名は天下に鳴り響きました。以後「自然と人間」、「みみずのたはごと」など数多くの作品を世に出していきました。

 企画展の中心となります「梅一輪」の作品は、大正2年(1913)年に出された「みみずのたはごと」の一節にあります。モデルとなった箕輪(みのわ)村(現茂原市)の豪農石倉権右衛門の次女であった石倉芳子と、熊本藩士族の出身で海軍士官であった鹿子木員信(かのこぎ かずのぶ)(明治17年〔1884〕生〜昭和23年〔1948〕没。哲学者、慶応大学教授、ベルリン大学客員教授、徳冨蘇峰を会長とする大日本言論報国会の理事、事務局長などを務める。作品には海軍士官葛城勝郎として登場する)との恋愛を描いたもので、既に留学のために渡米していた員信を追い、そして半年後に員信との結婚の夢叶わずして米国の地で亡くなった石倉芳子、そして最愛の芳子を失った鹿子木員信が、失意のままドイツへ去っていく話です。


石倉芳子は、この作品の中で岩倉馨子として登場し、「お馨さん」と呼ばれました。かつて世田谷の粕谷にある蘆花邸を訪れた芳子が、庭先の梅の木の下に立ち、白梅の花を髪にさした姿を偲び「お馨さんの梅」と呼ばれたのですが、「梅一輪」の名はここから来ています。蘆花夫妻は、かねてより二人の婚約に反対していた鹿子木、石倉両家の説得にあたり、芳子の渡米の問題でも度々茂原の石倉家を訪問しています。
今回企画しました「徳冨蘆花と梅一輪−お馨さんの青春と思い出−」は、過去からの決別とともに、新たな出発を願う決意と、そしてこのような蘆花自身の背景を追いながら、「梅一輪」の作品を通じて皆さんに文豪徳冨蘆花を知っていただきたいと思います。


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