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あしあと

    茂原市の歴史

    • [2015年3月5日]
    • ID:1347

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    茂原市の歴史

    古代

    茂原で人間が生活を始めたのは、旧石器時代(13,000年~18,000年前)のころと言われています。
    これは、市内北西端の桂字神田山の関東ローム層から、ナイフ形石器、石の削りカスなどが発見されたことによるものです。
    古代人の足跡を残す遺跡や貝塚は、ほかにも縄文式土器の破片や土偶などが出土した石神貝塚、縄文時代の人骨10体が見つかった下太田貝塚、弥生時代中期から後期の作と思われる土器、磨製の太形石釜、石包丁が出た宮ノ台遺跡などがあります。
    また、市庁舎建設現場からナガスクジラの化石や貝類が発見されたことから、1万年ほど前の平地部は、ほとんど海底であったと考えられます。やがてこの海は、5,000~6,000年前の時代に、土砂のたい積と隆起の繰り返しによって陸地化していきました。
    4世紀に大和朝廷が確立してからは、市内にも古墳が築かれるようになりました。双子塚古墳からは直刀や杯型土器などが、長尾古墳からは陶棺が掘り出されています。

    中世

    藻の茂る原野に手を入れ、牧野として整備したのは藤原黒麻呂でした。宝亀5年(774年)に上総介に任じられた黒麻呂とその子孫によって開墾された牧野は、広大な荘園を形成するに至りました。しかし、その荘園も武士階級の台頭とともに没落、戦国時代に消滅し、やがて武士の所領となっていきます。
    当時、里見氏と北条氏が反目する中で、付近は長南武田氏、土気酒井氏、東金酒井氏と黒熊大膳(本納地域)が勢力を張っていました。黒熊氏は酒井氏とともに里見氏に属し、一支城としての役割を担っていましたが、永禄7年(1564年)国府台合戦で里見方が北条氏に敗れたのを機に、酒井氏が北条側に寝返ったことから、両者の間柄は危機に陥りました。結局、黒熊大膳の奸計虚しく、里見の援軍を迎えぬまま本納城は落ち、大膳も自害しました。本納の蓮福寺の裏山は「本城山(ほんじょうやま)」と呼ばれ、九十九里平野を見渡せるここに黒熊大膳の居城があったとされています。
    のち上総藻原地方は、徳川家康の家臣である大久保治右衛門忠佐に支配されます。そして江戸幕府が開かれると、数多くの旗本の知行地として統治されることになります。今も受け継がれている「六斎市」は、このころ初代大久保治右衛門によって開かれたものです。
    江戸時代、この地方に関係した文化人には、実践的学問を説き、赤穂浪士の処分問題にかかわった荻生徂徠がいます。この向学の士は、14歳から13年間、本納に住んでいました。
    また、このころ茂原は湿地や沼が散在する原野でしたが、8代将軍吉宗が登場した享保年間から、千町野、大芝村、永吉、早野地区で新田開発が盛んに行われました。

    近代

    江戸幕府は慶応3年(1867年)ついに15代将軍が大政を奉還、翌年3月には明治政府が成立しました。この年の7月、元久留米藩士の柴山文平が知県事として派遣され、上総、安房の2国の行政を担いました。
    明治4年(1871年)廃藩置県が行われ、房総地方は茂原の属する木更津県、新治県、印旛県となり、2年後、木更津県と印旛県が合併して千葉県が誕生しました。
    明治政府は日本の近代化を進めるために、殖産興業、富国強兵を掲げ、文明開化の波は中央から地方へ急速に浸透していきました。茂原は古くから房総往還の道筋にあたり、定期市も開かれていたため、交通の要衝、商業の中心でもあり、道路・交通網をはじめ、産業・経済、教育、そして情報の面で大いに発展を遂げました。特に交通の面では、茂原―長南―鶴舞間に2頭立ての乗合馬車が1日2往復走るなど、早くから旅客・物資の流通が図られました。やがて、軌道を人が押して走る人車軌道の登場に伴い馬車は姿を消し、文明開化のシンボルとされた鉄道は、明治30年(1897年)に房総鉄道株式会社が大網─一宮間を開通(茂原駅と本納駅が開業)、さらに昭和5年(1930年)南総鉄道株式会社により、茂原─笠森寺間が開通しました。
    教育の面でも、茂原は江戸時代から僧侶や神職による寺子屋や私塾がたくさん開かれ、「教育郡」と呼ばれていましたが、学制の発布以後も、本納の私立東洋学校、茂原女子技芸学院などが開校、「教育のメッカ」とまで言われるようになりました。
    茂原町はすでにその町名を使っていましたが、明治22年(1889年)の町村制施行の際、長柄郡下の茂原、高師、上林、上茂原、鷲巣、箕輪、長谷、内長谷、大芝、早野新田、永吉新田と小林村の飛び地を合併して1町とし、新しい「茂原町」が誕生しました。
    産業面に目を転じてみましょう。茂原の近代産業を飛躍的に発展させた原動力は、なんといっても天然ガスです。明治時代半ば、農業用水のための井戸から褐色の冷水が吹き上がったことに端を発し、明治末期から昭和初期にかけて「利用組合」という組織による天然ガス事業が営まれました。
    その後、昭和10年(1935年)に大多喜天然ガス(株)が茂原鉱業所を設けて都市ガス供給を始め、同年、理研真空工業(株)が設立、同社が昭和18年(1943年)に日立製作所に合併されたのがきっかけで、工業都市化への拍車がかかるようになりました。
    やがて訪れる戦争の悲劇は、茂原の上を素通りしてはくれませんでした。太平洋戦争の渦中にあった昭和18年、東郷地区に航空隊基地が造られ、付近の住民や学生が飛行場建設のため、勤労奉仕に多数動員されました。また、基地を狙った米軍機の襲撃にも何度か見舞われ、役場職員や村民合わせて6人が犠牲になっています。
    戦災復興の兆しが見え始めた昭和27年(1952年)4月1日、茂原町・鶴枝村・東郷村・豊田村・五郷村・二宮村の6町村が合併して「茂原市」が誕生。さらに昭和47年(1972年)5月、本納町とも合併して、現在の茂原市の姿となりました。

    この文章は市制50周年記念誌「輝跡(きせき)」に掲載されたものを転載しています

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