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あしあと

    郷土企画展 徳富蘆花と梅一輪-お馨さんの青春と思い出-

    • 初版公開日:[2022年04月26日]
    • [更新日:2022年4月26日]
    • ID:296

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    会期

    平成15年2月1日(土曜日)~3月9日(日曜日)

    過去の展覧会ご案内です。すべて終了しています。

    内容

    徳冨蘆花と愛子夫人

    徳冨蘆花と愛子夫人

    徳冨蘆花(とくとみ ろか)、本名健次郎は、明治元年(1868)10月25日、徳冨一敬と久子の三男として、熊本県葦北郡水俣に生まれました。徳冨家は代々郷士で、熊本藩領内の惣庄屋、代官を務めていました。幼少の頃の蘆花は大所帯であった徳冨家の末っ子であったためか、放任的な教育の下で育ち、はにかみやで、癇癪(かんしゃく)持ちという内向的な性格であったようです。この性格が蘆花自身を昭和2年(1927)に群馬県の伊香保で亡くなるまで長く苦しめることになったのです。
    蘆花の将来を憂えた両親は、徳冨家の家督として期待されていた兄猪一郎(いいちろう)(後の徳冨蘇峰〔そほう〕、文久3年〔1863〕生~昭和32年〔1957〕没)に託しました。蘆花が同志社へ二度目の入学をした明治20年(1887)に、同志社創立者の一人山本覚馬(かくま)の娘久栄との恋愛が発覚、同じく同志社の創立者の一人であった新島襄夫妻や周囲の反対にあって二人は引き裂かれてしまいます。苦悩のうちに京都での日々を送った蘆花は、「突貫か然らずんば死」と覚悟を決めて、密かに京都を脱出、わずかな資金を手にしてあてのない旅路についたのでした。明治22年(1889)、兄猪一郎が設立した民友社に入社した蘆花は、翌年同じく兄が設立した国民新聞社へ転属となり、ここで海外の情報の翻訳や文筆の仕事を与えられ従事することになりました。
    こうして、コツコツと兄の仕事を手伝いながら文筆活動に精力を注いだ蘆花は、同33年(1900)に刊行された「不如帰」で未曾有の大ヒットを飛ばし、一躍蘆花の名は天下に鳴り響きました。以後「自然と人間」、「みみずのたはごと」など数多くの作品を世に出していきました。
    企画展の中心となります「梅一輪」の作品は、大正2年(1913)年に出された「みみずのたはごと」の一節にあります。モデルとなった箕輪(みのわ)村(現茂原市)の豪農石倉権右衛門の次女であった石倉芳子と、熊本藩士族の出身で海軍士官であった鹿子木員信(かのこぎ かずのぶ)(明治17年〔1884〕生~昭和23年〔1948〕没。哲学者、慶応大学教授、ベルリン大学客員教授、徳冨蘇峰を会長とする大日本言論報国会の理事、事務局長などを務める。作品には海軍士官葛城勝郎として登場する)との恋愛を描いたもので、既に留学のために渡米していた員信を追い、そして半年後に員信との結婚の夢叶わずして米国の地で亡くなった石倉芳子、そして最愛の芳子を失った鹿子木員信が、失意のままドイツへ去っていく話です。

    石倉芳子の写真

    石倉芳子
    (右から二番目)

    鹿子木員信の写真

    鹿子木 員信

    石倉芳子は、この作品の中で岩倉馨子として登場し、「お馨さん」と呼ばれました。かつて世田谷の粕谷にある蘆花邸を訪れた芳子が、庭先の梅の木の下に立ち、白梅の花を髪にさした姿を偲び「お馨さんの梅」と呼ばれたのですが、「梅一輪」の名はここから来ています。蘆花夫妻は、かねてより二人の婚約に反対していた鹿子木、石倉両家の説得にあたり、芳子の渡米の問題でも度々茂原の石倉家を訪問しています。芳子の病死後は、石倉家で盛大な葬儀を行いました。そのときの写真が残されています。
    この「梅一輪」が「みみずのたはごと」の一節として世に出た翌大正3年に、京都同志社時代の失恋記録である「黒い眼と茶色の眼」が刊行されたことは、蘆花の心に大きな変化をもたらす一因になったと思われます。
    今回企画しました「徳冨蘆花と梅一輪-お馨さんの青春と思い出-」は、過去からの決別とともに、新たな出発を願う決意と、そしてこのような蘆花自身の背景を追いながら、「梅一輪」の作品を通じて皆さんに文豪徳冨蘆花を知っていただきたいと思います。

    お問い合わせ

    茂原市役所教育委員会教育部茂原市立美術館・郷土資料館

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    ファクス: 0475-26-2132

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